小太郎さんのいる日々

スキッパーキの小太郎さんと自堕落飼い主のどうということもない日々の記憶

小太郎さんのしっぽ(断尾の話その2)

某所で小太郎さんの断尾について『残酷』というご意見を戴いた。
スキッパーキに限らず、およそ断尾や断耳をしている犬種を飼っている以上、そしてそれをネット上でネタにする以上、それはどうしても免れ得ない批判であると理解はしているつもりだが、少々考えるところもあり、一度意見をまとめておこうと思った次第。

まず先に、断尾や断耳という風習をどう思うかについて述べてしまえば、それはもう『残酷』という他ないだろう。色々調べてみると、生まれて間もない子犬は神経が未発達なのでその段階で断尾や断耳を行ってもほとんど痛みは感じないという説があるようだが、そもそも、身体を欠損させる行為自体が残酷であり、仮に痛みを感じていないとしても、それを口実に正当化されるような行いではない。そんな断尾をしているような犬を飼うおまえは残酷だと言われるのであれば、これもまた、反論のしようはない。

ただ、当の意見をされた方の言い分には気にかかる点があったのも確かだ。

使役犬なら考えますが、愛玩用ならそのままを愛でて
あげればよいのでは?

例えば、フレンチブルドッグのような犬種をどうお考えになるだろうか?
人間の望むままの姿にするために、交配されその姿を変え、遂には自然分娩による出産もままならず帝王切開を必要とするような愛玩犬がフレンチブルドックである。

確かに外科的手法で直接手を加えているわけではないが、人間の欲望によって不自然に姿を作り替えられているという意味では、断尾や断耳と何ら違いがないのではないか。
数世代、あるいはそれ以上に渡る交配によってある犬種が作出される際には、遺伝形質の問題によって先天的な障害や疾患を抱えて生まれてくる子犬も数多くいるはずだ。

一部の例外を除いて、自然状態の姿のまま人間に飼育されている犬などほとんど存在しない。犬は人間の要求や好みによって様々に姿を作り替えられてきた生き物だ。断尾や断耳を残酷だからとして否定するなら、本来であれば愛玩犬の作出そのものが否定されてしかるべきだろう。犬を愛玩対象にするのは構わないが、断尾や断耳は残酷だからダメ、という論旨は、自分にはどうしても矛盾しているように思える。

動物を飼育するという行為は、その生命の生殺与奪を握るという意味で業が深い行いだと思う。まして犬は、人間の要求によってその大きさも姿形も千差万別に作り替えられてきた生き物であり、自分の好みで飼いたい犬を選択しそれを飼うのであれば、その業を直視すべきだ。

しかし、そうと理解しつつも、一方で尻尾のない小太郎さんのお尻に強く愛おしさを感じることも事実であり、我ながら度し難いとしかいいようがない。
ひとつ確かなことは、自分できる=すべきことは、こうした諸々を理解しながら、今そこに現としてある存在としての犬を責任を持って飼育し愛することしかないということだ。

近年、断尾や断耳を止めようという動きが広まっている。これはこれでとても良いことだと思う。やがて、尻尾のないスキッパーキはいない時代が来るだろう。