小太郎さんのいる日々

スキッパーキの小太郎さんと自堕落飼い主のどうということもない日々の記憶

犬の『スタンダード』とは?

これも『もちろぐ』さんが触れていた話題。いわゆる犬の純血種における「スタンダード」という基準について。

断尾の批判を受けた際にも触れたことだが、そもそも『スタンダード』という基準それ自体が、人間が勝手に創りだしたものに過ぎない。小太郎さんを始めとする”犬種名で呼ばれるような『血統書つき』の犬”は、そのほとんどが人間の都合勝手によって作られたものに過ぎない。

例えば『断尾』。ウエルシュ・コーギー・ペンブロークなどの場合は牧羊犬として家畜に尾を踏まれてケガを防ぐためと説明されているが、現在ではその説も怪しいとされているらしい。スキッパーキなどに至っては『イタズラに腹を立てた靴職人が罰として断尾したのがブームになった』、などという断尾の正当性の言い訳にすらならないような理由から断尾の習慣が生まれたと言われている。

コーギーにせよスキッパーキにせよ、およそほとんどの犬種がその作出と固定のために長い交配の歴史を経てきたことは確かで、その中でどれほど遺伝形質の問題を抱えた個体が生まれてきたかは想像に難くない。近年では『チワックス』等と呼ばれるミックス犬が持て囃されているそうだが、それらの作出に際し、遺伝形質上の障害を抱える子犬がかなりの確率で生まれていることを、それらを飼う飼い主さんたちのどれだけが自覚しているのだろうか。

それと同じことはスキッパーキやコーギーにも同じことが言える。彼らが今の形に固定されるまでに、どれほどの犠牲があっただろうか? 本来の姿形をとどめているとされる日本犬ですら、より良い正確や姿の個体を生み出すために作為的な交配が行われてきたことには違いなく、つまるところそれらもまた、例外ではない。

犬は変身する動物だという言い方もあるらしい。そうして人間の家畜として、人間の望むまま作り変えられ、姿を変化させてきた、それ自体が犬の生存戦略だという意見をどこかで耳にしたこともある。だが、そんなのはつまるところ開き直りのようにしか思えない。あくまでそれは、人間側のエゴを動物に押し付ける行為であることには違いないはずだ。

ただ、自分は純血種の犬を否定するつもりもさらさらない。犬を飼う人にはそれぞれの欲求や希望があり、個々の犬たちがその好みや要求に答えられたからこそ、彼らの多くは幸せな家庭に迎え入れられ生きていくことができる。そのこともまた確かな事実であるからだ。

JKCの基準などと言うものは、単にJKCが勝手に決めているものに過ぎない。それから外れているからと言って、その犬に価値がないということはない。どんな犬であれ、一緒に暮らせばそれはその人にとって大切な家族になることには違いない。

決して忘れてはいけないと思っていることがひとつだけある。
それがどんな犬であったとしても、犬を飼うということはとどのつまり、自分自身のエゴや欲望によるものだ。犬にかぎらず動物を飼うということは、そういう業を抱えることと同義であると言えるだろう。為すべきはその業から目をそらさずそれと向き合い、その事を十分承知した上で、今目の前にいる犬……小太郎さんを愛し、自分のできるかぎりの事をしてあげることではないだろうか。