小太郎さんのいる日々

スキッパーキの小太郎さんと自堕落飼い主のどうということもない日々の記憶

小太郎さんのごはん

小太郎さんが悪質なブリーダーの犬舎出身というのは、以前も書いた通り。
我が家に来た頃の小太郎さんはほぼ栄養失調状態、痩せっぽちで、あばら骨が見ただけで分かるほど浮き上がっていた。

そのことが大きく関係しているのだろう。
小太郎さんは食べ物に執着し、意地汚い。
おまけに異物を食べるクセもある。新聞紙やトイレットペーパーの類は、目の前にあればまるで当たり前のように食べようとする。仔犬だった頃は食糞のクセもひどく、それを止めさせるのにとにかく苦労させられた。散歩途中にうんちをするクセがついてからは、ほとんど収まりはしたのだけど、今でも油断することができない、

幼少期のひもじい思いが、そういう悪癖の原因になっている可能性は高いと思っている。というのも、そういう悪癖がある反面、美味しいものを食べたときの喜びようもまた、普通ではないからだ。飼い主が食事をしている際におかずを分け与えたりすると、リビングのソファに飛び乗り、身悶えして喜びを表す。実際、小太郎さんが「美味しかった」と言葉に出して言うわけではないから、それはあくまで推測に過ぎないのだが、その行動をするのはほとんどが決まったエサ以外の物を食べた直後なので、それを食べたことへの喜びを表している可能性は高いと考えている。

人間の食べ物は犬にはカロリーや塩分が高すぎるので、与えてはいけない。

そんな原則論は十分承知している。
しかし、ソーセージや焼き芋のかけらを食べ、身もだえして喜ぶ小太郎さんの様子を見ていると、またつい上げたくなってしまうのも確かだ。

犬の長寿を願うなら、健康に害のある人間の食べ物を与えてはいけない。
そんなことも、じゅうじゅう承知している。
だが、犬の長寿とは、果たして誰のための長寿なのか、そのことに疑問を感じることもまた、確かである。

犬には言葉がない。よって彼らには時間という概念はなく、その感得している世界は、おそらく永遠の今であるはずだ。彼らにとっては今この瞬間の体験こそがすべてであり、過去を振り返りも、未来を思い煩うこともないだろう。未来を予感しそのことに不安を覚えるのは、言葉のもたらす意味の世界に生きる人間だけなのだ。

その意味において、犬の長寿を願うことと、犬におかずを分けてあげたいと思うことに、どれだけの差があるだろうか? 犬が未来も寿命もない、『永遠の今』を生きていると考える以上、犬の長寿の意味はその犬自身の見出すところではなく、あくまで飼い主が望むことに過ぎない。つまるところ、犬の長寿を願うのも、犬におかずを分け与えたいと思うことも、飼い主の願望、言い換えればエゴであること変わりないのではないだろうか?

念のため申し上げておくが、飼い犬の長生きを願うことを否定するつもりはまったくない。
過剰なカロリーや塩分のせいで犬が病気になり、苦しませることになるなら、その苦痛はやはり飼い主の責任だ。犬を不要に苦しませたくなければ、飼い主がその健康に留意すべきなのはごく当たり前の話だ。

ただ、それでも……小太郎さんが食べることに喜びを表す様子を見ていて思う。
ひたすら、犬の長寿を願い、犬が欲しがる食べ物を与えず、それで数年寿命が伸びることにどれほどの価値があるだろう? 犬が「永遠の今」を生きているとする以上、むしろ、今の喜びを叶えてあげるべきではないだろうか?

一方で犬の健康を願い、一方で喜びを与えたい。

そんな二律背反を抱えてしまうのも、犬を飼うということの業を背負う、ということなのだろう。

だから自分は、今日も小太郎さんに自分のおかずをわけてあげる。
塩分やカロリーがなるべく悪影響を与えないように、その量を加減しつつ。

小太郎さんが喜ぶ姿を観たいから。